10月1日、レジやコールセンター、役所の窓口で起きる「客からの理不尽」への対応が、企業の善意や現場の我慢から、法律上の義務に切り替わる。改正労働施策総合推進法が施行され、カスタマーハラスメント(カスハラ)を防ぐ措置が、従業員を1人でも雇うすべての事業主に求められる。
やるべきことは抽象論ではない。方針を決めて周知する、相談窓口を置く、担当者を訓練する、悪質な場合は取引や役務の提供を断ち警察や弁護士につなぐ——厚生労働省が今年2月26日に告示した指針は、こうした措置を10項目に落とし込んでいる。罰則はないが、放置すれば助言・指導・勧告、さらに企業名の公表という行政対応が待つ。
同時に、客の側の立場も静かに変わる。指針は「社会通念上許容される範囲」を超えた言動をカスハラとし、契約内容に沿った正当な要望や改善要求はこれに当たらないと明記している。つまり境界線が言語化され、記録され、社内で共有される。
- 施行日:2026年10月1日。大企業・中小企業の区別なく、労働者を雇う全事業主が対象
- 守られる人:正社員だけでなくパート・アルバイト・契約社員も含む
- 「客」の範囲:消費者に限らず、取引先、施設利用者、問い合わせ者まで。B2Bの現場も対象
- 企業がやること:方針明示・相談体制・事実確認・被害者支援・再発防止・外部連携など10項目
何が義務になるのか
法律の条文が「カスハラ」という言葉で線を引いたのは初めてに近い。まずは定義から押さえたい。
3つの要件で判断される
指針はカスハラを次の3つがそろったものと定義している。
- 顧客等(取引先や施設利用者も含む)の言動であること
- その労働者が従事する業務の性質などに照らし、社会通念上許容される範囲を超えていること
- それによって労働者の就業環境が害されること
重要なのは、3の判断が「平均的な労働者の受け止め方」を基準にする点だ。本人が傷ついたかどうかだけで決まるわけではない。逆に、業種の慣行や言い方、繰り返しの度合いといった文脈を総合して見るため、「同じ言葉でも場面によって評価が変わる」構造になっている。
事業主に求められる10項目
厚労省の指針が示す措置は、大きく方針・相談体制・事後対応・抑止の4本柱で、具体的には次のような中身になる。
- カスハラを許さない方針を定め、従業員に周知する
- 対応手順を明確にし、教育・研修を行う
- 被害を受けた従業員のための相談窓口を設ける
- 窓口担当者が適切に対応できるよう訓練する
- 申告があったら速やかに事実確認する
- 被害を受けた従業員を支援する(配置転換、メンタル面のケアなど)
- 確認結果に基づき再発防止策をとる
- 悪質な事案では警察への通報や役務提供の停止といった手順を定める
- 相談者のプライバシーを守る
- 相談したことを理由とする不利益取扱いを禁じる
「マニュアルを1枚作って終わり」では足りない。誰が引き取るのか、どこまでやったら通報するのか、記録はどう残すのかまで決めておく必要がある。なお同じ改正法では、求職者等に対するセクシュアルハラスメントの防止措置も10月1日から義務化される。採用面接や説明会もハラスメント対策の射程に入る。
ここがポイント: カスハラ対策は「客を選別する権利」ではなく「従業員を守る手順を整える義務」。正当なクレームを断る根拠にはならない一方、社会通念を超えた言動には役務提供の停止まで含めた対応が想定されている。
なぜ今、法律で義務化するのか
背景にあるのは、現場の消耗が調査のたびに数字として出てきたことだ。
厚労省の委託調査(令和5年度・職場のハラスメントに関する実態調査)では、過去3年間に顧客等からの著しい迷惑行為について相談があった企業は約3割で、前回調査から8.4ポイント増えた。セクハラの相談は減り、カスハラだけが増えている構図である。
公務の窓口はさらに重い。自治労連が自治体職場の労働者7万1,191人から回答を得た調査では、47.6%が一度以上カスハラを受けた経験があると答え、同僚が受けている場面を見たという回答は56.2%に達した。被害を受けた人のうち43.7%が「気分の落ち込み、体調不良、食欲不振」などの健康影響を挙げ、2.3%は休職に至っている。最多の類型は「侮辱や威圧的な大声などの粗暴な行為」で84.4%、次に「明らかな嫌がらせによる長時間の拘束」が48.8%だった。
民間の現場でも似た傾向が出ている。全国のコールセンターで電話応対を担う240人への調査(2026年9月実施)では、過去1年にカスハラを受けた人が59.6%。うち約78%が「威圧・脅迫的な言動」、54.5%が暴言、53.8%が同じ要求の繰り返しを経験したと答えた。影響として72.7%が精神的ストレスを挙げ、意欲の低下が51%、15%は配置転換や離職を考えたという。
つまり義務化の狙いは、マナー啓発ではなく人手が抜けていくことへの対処にある。窓口に立つ人が体調を崩し、休み、辞める。その穴埋めは残った人にのしかかる。
客の立場からは何が変わるか
「クレームを言えなくなるのか」という不安は的を外している。指針が対象にするのは、契約や提供内容に見合わない要求、人格を否定する言動、長時間の拘束、土下座の強要といった類型だ。商品の不具合を伝える、返金の可否を尋ねる、対応の改善を求める——これらは社会通念上許容される範囲の申し出として扱われる。
変わるのは対応の「見え方」だ。
- 電話が録音されている、対応内容が記録として残る場面が増える
- 一定の段階で上位者や専門部署に引き継がれる運用が明示される
- 繰り返しや悪質さが認められた場合、取引や来店・サービス利用を断られる可能性がある
- 相談窓口の設置により、現場が一人で抱えずに社内へ上げる経路ができる
利用者側の意識調査にも、この線引きへの手応えが表れている。就業者463人を対象にした2026年8月の調査では、商品やサービスに不満を感じた経験がある人が77.1%、不満を伝えること自体に肯定的な人は87.2%に達した。伝える理由の最多は「改善してほしいから」で54.7%。一方で37.8%が「自分も無意識にカスハラ的な言動をしているかもしれない」と答えている。許されない行為として挙がったのは、特別扱いの要求(36.5%)やSNSへの投稿(36.1%)だった。
改善を求める声と、相手を追い詰める言動は別物だという認識自体は、かなり広く共有されている。ただ自分の言動がどちらに入るのかは判断が難しい、というのが実情に近い。
準備は追いついていない
義務化までの残り日数を考えると、体制整備の遅れが最初の争点になる。
先のコールセンター調査では、対応ルールを「整備済み」と答えた職場は24.2%にとどまり、「一部ある」が29.2%。規模差も大きく、50席未満の拠点で整備済みは17%、100席以上では38.5%だった。小さな事業所ほど、窓口の設置も担当者の訓練も後回しになりやすい。
現場が求めているものはシンプルだ。最も多かった要望は「難しい電話を上司が代わって引き取ること」で57.9%。次に判断基準の明確化と、迷ったときに相談できる相手が挙がった。方針文書よりも、その場で交代してくれる人と、切ってよい基準である。
自治体職場の調査では、被害を受けたのに支援にたどり着けなかった人が24.7%いた。相談先を知らない、あるいは言わないことを選んだためだ。上司に報告した人のうち28.5%は「解決しなかった」と答えている。窓口をつくるだけでは足りず、上げた先で止まらない運用まで含めて設計できるかが問われる。
今後の注目点
- 10月以降の運用実態:義務化されても罰則はない。助言・指導・勧告、企業名公表がどの程度実際に使われるかが実効性を左右する
- 小規模事業者の整備率:従業員1人でも対象になる一方、専任担当を置けない事業所の対応がどこまで進むか
- 「線引き」の具体例の蓄積:どこまでが正当な要望で、どこからが社会通念を超えるのか。労働局の助言事例や裁判例が出そろうまで、現場は判断に迷う
- 公務・医療・介護など断りにくい現場:役務提供の停止という手段が使いにくい職場で、どう従業員を守るのか
- 既存の条例との関係:東京都のようにカスハラ防止条例を先行させた自治体があり、条例と改正法の役割分担が整理されていくか
10月1日を過ぎても、窓口の光景がすぐ変わるわけではない。変わるのは、理不尽を受けた人が「これは記録して上に上げていい」と言える根拠ができることだ。その根拠が実際に使われるかどうかは、相談窓口の電話が鳴った先で誰が対応を引き取るかにかかっている。
参照リンク
- 令和8年10月1日からハラスメント対策が強化されます! カスタマーハラスメント対策の義務化(厚生労働省)
- 職場のハラスメントに関する実態調査報告書(厚生労働省委託事業)
- 2026年10月カスハラ対策が義務化!企業が講ずべき措置を指針を踏まえて解説(BUSINESS LAWYERS)
- 【2026年10月1日施行】カスタマーハラスメント対策が義務化|企業が準備すべき10の措置と対応手順(MSコンパス)
- 公務職場で働く人の半数がカスハラを経験(労働政策研究・研修機構)
- カスハラ被害、59.6%が過去1年に経験。対策義務化目前も、対応ルール「整備済み」は24.2%(PR TIMES)
- Job総研『2026年 カスハラに関する意識調査』
- 令和8年10月から義務化 カスハラ・求職者等セクハラ対策(ロイヤル総合研究所)
