年金は「何歳まで生きれば得」だけで決めない 60・65・70・75歳の分岐点と5つの判断軸
年金の受給開始年齢に、誰にでも共通する「正解」はありません。額面の累計だけなら、60歳の繰上げはおおむね80歳10カ月より前、70歳の繰下げは81歳11カ月より後に亡くなる場合に有利になる計算です。
ただし、実際の選択では65歳まで、または65歳以降の生活費をどう確保するかが先に来ます。税金や社会保険料、加給年金、働き方、健康状態まで含めると、単純な損益分岐点は動くからです。
この記事の要点は次の4つです。
- 繰上げは最短60歳から。1カ月早めるごとに原則0.4%減り、その減額は生涯続く
- 繰下げは75歳まで。1カ月遅らせるごとに0.7%増え、75歳なら最大84%増える
- 額面上の分岐点は、60歳開始が約80歳10カ月、70歳開始が約81歳11カ月、75歳開始が約86歳11カ月
- 最後は「長生き予想」より、当面の資金と高齢期の毎月収入をどちらに厚くするかで考える
※制度・金額は2026年7月時点。個別の受給資格や手取り額は日本年金機構、税務署、自治体などへの確認が必要です。
受給開始を変えると、年金額はどう動くのか
繰上げは早く受け取る代わりに月額を減らし、繰下げは受給を待つ代わりに月額を増やす制度です。 増減率は一度決まると、原則として生涯変わりません。
老齢年金は通常65歳から受け取りますが、本人の請求により60〜64歳へ繰り上げたり、66〜75歳へ繰り下げたりできます。
繰上げは最大24%の減額
1962年4月2日以後に生まれた人は、65歳より1カ月早めるごとに0.4%減額されます。60歳ちょうどなら60カ月早いため、減額率は24%です。
65歳から受け取る年金額を年120万円と仮定すると、次のようになります。
- 60歳開始:年91万2,000円
- 62歳開始:年102万7,200円
- 64歳開始:年114万2,400円
- 65歳開始:年120万円
1962年4月1日以前に生まれた人には、1カ月当たり0.5%の減額率が適用されるため、同じ年齢で始めても結果が異なります。
繰上げ請求は後から取り消せません。国民年金への任意加入や保険料の追納ができなくなるほか、65歳までに障害の状態になった場合の障害基礎年金などにも影響するため、目先の受取額だけで決めるのは危険です。
繰下げは75歳で最大84%の増額
繰下げは1カ月につき0.7%増額されます。65歳時点で年120万円なら、額面は次の水準です。
- 66歳開始:年130万800円
- 68歳開始:年150万2,400円
- 70歳開始:年170万4,000円
- 75歳開始:年220万8,000円
老齢基礎年金と老齢厚生年金は、別々に繰り下げられます。たとえば基礎年金は65歳から受け取り、厚生年金だけを70歳まで待つ選択も可能です。
ここがポイント: 受給開始年齢は「全部を同じ年齢にそろえる」必要があるとは限りません。生活費を確保しながら将来の定期収入を増やす中間案もあります。
額面だけなら、何歳で累計額が逆転するのか
分岐点は受給開始後の経過期間でほぼ決まりますが、それは税・保険料を引く前の概算です。
65歳開始と比べた累計受給額の目安は、次のように計算できます。
60歳へ繰り上げた場合
1962年4月2日以後生まれの人が60歳から受け取ると、年金額は65歳開始の76%になります。5年間先に受け取れる一方、その後も24%少ないままです。
累計額が65歳開始に追いつかれるのは、概算で80歳10カ月ごろ。それより前なら60歳開始の累計が多く、それ以後は65歳開始が上回ります。
70歳まで繰り下げた場合
70歳開始の年金額は65歳開始より42%多くなります。受け取らなかった5年分を増額分で取り戻すのは、概算で81歳11カ月ごろです。
75歳まで繰り下げた場合
75歳開始は84%増ですが、10年間は老齢年金を受け取りません。65歳開始を累計額で上回るのは、概算で86歳11カ月ごろです。
日本年金機構も、繰下げ開始後11年11カ月目以降に、65歳開始の累計額を上回ると説明しています。つまり、何歳まで繰り下げても「受け取り始めてから約12年」が額面上の一つの目安です。
ただし、これは毎年の年金改定や税金、社会保険料、受け取ったお金の運用益などを考慮しない単純比較です。分岐年齢を1カ月単位で当てにいくより、前後数年の幅を持った目安として使う方が現実的です。
損益分岐点より先に確認したい5つのこと
受給開始を決める中心は、寿命の予想ではありません。自分で動かせる家計条件から確認します。
1.年金を待つ間の生活費があるか
繰下げ中は、増額を得るために老齢年金を受け取りません。その間の家賃、食費、医療費を給与や預貯金で賄う必要があります。
生活費が不足して高金利の借り入れを使うなら、将来の年金増額より負担が重くなりかねません。まず月単位の収支表を作り、予備費を残した状態で何歳まで待てるかを確認するのが先です。
2.高齢期に必要な「終身の収入」はいくらか
繰下げの強みは、単に累計額を増やすことではなく、長生きしたときの毎月収入を厚くできる点です。
一方、住宅修繕や家族への支援など、60代前半にまとまった支出が見込まれる人には早めの受給が合う場合があります。判断する際は、次の二つを分けます。
- 60〜70代前半に必要な資金
- 80代以降も毎月不足しそうな生活費
後者が大きいほど、繰下げの役割は明確になります。
3.配偶者の加給年金を受けられるか
一定の要件を満たす配偶者や子がいる場合、老齢厚生年金に加給年金額が付くことがあります。しかし、加給年金額は繰下げによる増額の対象ではなく、繰下げ待機中も受け取れません。
年齢差のある夫婦では、失う加給年金の総額が大きくなる場合があります。本人分の増額率だけでなく、配偶者の年齢、厚生年金加入期間、加給年金の対象期間を一緒に確認する必要があります。
4.働きながら受け取る予定か
65歳以降も厚生年金に加入して働く人は、給与と老齢厚生年金の合計によって在職老齢年金の調整を受ける場合があります。2026年度の支給停止調整額は月65万円です。
さらに、在職老齢年金によって支給停止となる部分は、繰下げ増額の対象になりません。高い給与を得ながら働く予定の人は、「繰下げれば本来の年金全体が0.7%ずつ増える」とは限らない点に注意が必要です。
老齢基礎年金は在職老齢年金の調整対象ではありません。基礎年金と厚生年金を分けて考える理由の一つです。
5.額面ではなく手取りで比べたか
公的年金は原則として雑所得になり、年金額が増えると所得税や住民税、介護保険料、国民健康保険料、後期高齢者医療保険料などに影響する場合があります。
所得や世帯状況、自治体によって負担が異なるため、「年金が42%増えれば手取りも42%増える」とは限りません。繰下げ前後の額面に、概算の税・保険料を反映して比べる必要があります。
「何歳が得」というネット上の関心をどう読むか
ネット上で注目されやすいのは損益分岐年齢ですが、実際の利用者の多くは65歳開始を選んでいます。
厚生労働省の2024年度事業概況によると、年度末時点で70歳だった老齢基礎年金受給権者のうち、繰上げ受給は6.9%、本来の年齢での受給は87.7%、繰下げ受給は5.5%でした。繰下げは増えつつあるものの、まだ多数派ではありません。
解説記事やSNSでは「何歳で元が取れるか」という比較が関心を集めます。数字が明快だからです。一方では、健康なうちに使えるお金を重視する声、反対側には、長生きに備えて終身収入を増やしたいという考えがあります。
この二つは、どちらかが誤りなのではありません。違うのは優先順位です。
- 早い時期の自由に使える資金を重視するなら、繰上げまたは65歳開始
- 80代以降の収入不足を小さくしたいなら、繰下げ
- どちらかに決め切れないなら、基礎年金と厚生年金の受給時期を分ける
「平均寿命まで生きるか」だけでなく、資産を何歳まで、どの順番で使うかに置き換えると判断しやすくなります。
受給開始を決めるための実務的な手順
結論を急ぐ前に、本人の年金記録を使った比較が必要です。
- 「ねんきんネット」で65歳時点の見込額を確認する
- 60歳、65歳、70歳など複数の開始年齢で試算する
- 給与、企業年金、預貯金を加え、開始までの生活費を月ごとに置く
- 加給年金、在職老齢年金、税・社会保険料への影響を確認する
- 一つに絞れなければ、老齢基礎年金と老齢厚生年金を分ける案も比べる
「ねんきんネット」の詳細な条件での試算では、今後の働き方や収入見込み、受給開始年齢を設定できます。ただし、共済組合の加入期間など、試算に制約があるケースもあります。
特に繰上げは取り消せないため、年金事務所で確認してから請求するのが安全です。繰下げを考える人も、配偶者の加給年金や在職による支給停止が関係するなら、額面の増額率だけで判断しない方がよいでしょう。
最後に見るべき数字は、損益分岐年齢ではありません。受給を待つ間に預貯金が尽きないか、そして80代以降の毎月の不足額をいくら減らせるか。 この二つを同じ家計表に載せることが、受給開始年齢を決める出発点です。
