退去時の「元どおり」は新品に戻すことではない 原状回復費を分ける3つの基準
賃貸住宅の原状回復で、借主が負担するのは原則として、故意・過失や通常とはいえない使い方によって生じた傷・汚れの復旧費用です。年月とともに生じる劣化や、普通に暮らしていて避けにくい損耗まで、すべて借主が負担するわけではありません。
ただし、「通常損耗なら請求されることは絶対にない」とも限りません。契約書にクリーニング費用などの特約があれば、その内容と合意のされ方を確認する必要があります。
この記事の要点は次の4つです。
- 原状回復は、入居時の新品状態へ戻すことではない
- 経年変化・通常損耗は、原則として貸主負担
- 借主に責任があっても、補修範囲と経過年数を考慮する
- 特約は自動的に無効ではないため、契約前の確認が重要
原状回復の境界は「原因」で決まる
最初に見るべきなのは、傷や汚れが生じた原因です。 見た目が同じ変色やへこみでも、原因によって負担者が変わります。
国土交通省の「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」は、貸主と借主の負担を判断する一般的な基準を示しています。民法上も、通常の使用や年月の経過によって生じた損耗・経年変化は、借主の原状回復義務から除かれるのが原則です。
貸主負担が原則となるもの
普通に生活していれば発生し得る変化は、家賃に含まれる住宅の使用対価によって賄うという考え方です。
代表例には次のようなものがあります。
- 家具を置いたことによる床やカーペットのへこみ
- 日光による畳や壁紙の変色
- テレビや冷蔵庫の背面に生じる電気焼け
- 画びょうによる小さな穴で、下地ボードの交換が不要なもの
- 設備機器が耐用年数を迎えたことによる故障
国民生活センターは2026年2月、壁紙に残ったソファの跡を理由に張り替え費用を請求された事例を挙げ、通常損耗や経年変化は原則として借主負担ではないと改めて注意喚起しました。
借主負担になりやすいもの
一方、借主の不注意や手入れ不足によって損害が発生・拡大した場合は、借主負担となる可能性が高くなります。
- 引っ越し作業で付けた床や壁の傷
- 飲み物をこぼした後、手入れせず残ったシミ
- 結露を放置したことで広がったカビ
- ペットが付けた柱や壁紙の傷
- 喫煙による焼け焦げや、室内全体に及ぶヤニ・臭い
- 鍵の紛失に伴うシリンダー交換
水漏れや設備の不具合を放置し、被害が広がった場合も注意が必要です。設備そのものの修繕は貸主側の責任でも、借主が連絡を怠ったために拡大した部分については、借主の負担が問題になります。
ここがポイント: 「古くなったか、壊したか」だけでなく、「誰の行動が原因か」「早く連絡すれば拡大を防げたか」を分けて確認します。
借主に責任があっても、全面新品交換とは限らない
借主負担と判断されても、請求された工事費の全額をそのまま負担するとは限りません。 次に確認するのは、補修する範囲と部材の経過年数です。
補修は傷めた部分が基本
原状回復は物件全体を新しくするリフォームではありません。国土交通省のガイドラインでは、借主が傷めた箇所を中心とする最小限の施工単位が基本とされています。
壁紙の場合は平方メートル単位が望ましいとされますが、色や模様を合わせる必要から、傷のある箇所を含む一面分まで借主負担とすることはあり得ます。小さな傷一つを理由に、無関係な部屋を含む全室の壁紙交換費まで当然に借主負担となるわけではありません。
請求書を受け取ったら、少なくとも次を確認します。
- 傷や汚れがある場所
- 補修する面積や施工単位
- 材料費と工賃の内訳
- 全面交換が必要とされた理由
- 入居時または前回交換時からの年数
古い壁紙の価値まで新品価格で負担しない
壁紙やカーペットなどは、使用期間が長いほど価値が下がります。ガイドラインでは、壁紙は6年で残存価値が1円となる考え方を採用しています。
たとえば、入居時に新品だった壁紙を借主の過失で傷つけ、4年後に退去したケースでは、ガイドラインの計算例上、借主の負担割合はおおむね3分の1です。借主に責任があっても、4年間使用された壁紙を新品へ替える全費用を負担させる考え方ではありません。
ただし、すべての部材に一律6年を当てはめるわけではありません。
- 畳表や障子紙:消耗品に近く、経過年数を考慮しない扱い
- フローリング:部分補修では原則として経過年数を考慮しない
- 設備機器:それぞれの耐用年数を基に負担割合を算定
- 鍵の紛失:経過年数にかかわらず交換相当額が借主負担になり得る
「6年以上住めば何を壊しても無料」という意味ではありません。古くなった部材にも最低限の価値は残り、清掃費や工事費など、経過年数だけでは減額されない費用もあります。
「クリーニング特約があるから全額負担」はどう見るか
契約書に特約がある場合は、原則論だけで結論を出せません。 ハウスクリーニング代、畳の表替え、鍵交換費などを借主負担とする契約は実際にあります。
こうした特約は、書かれているだけで必ず有効とも、通常損耗を含むから必ず無効ともいえません。裁判例では、通常損耗の補修費を借主に負担させるには、負担する範囲が契約書に具体的に記載されているなど、借主が内容を明確に認識し、合意したといえることが重要とされています。
契約前には、次の点を読み飛ばさないことが大切です。
- 金額または計算方法が具体的か
- どの作業を借主が負担するのか
- 通常損耗も対象に含むのか
- 退去時の実費か、入居期間にかかわらない定額か
- 入居時に払った費用と重複していないか
「退去時の修理費はすべて借主負担」といった広すぎる記載があれば、対象と金額の基準を書面で確認したいところです。消費者に一方的な不利益を与える条項については、消費者契約法との関係が問題になる場合もあります。
なお、東京都内の居住用賃貸住宅では、宅地建物取引業者が媒介・代理する新規契約について、原状回復や入居中の修繕に関する法律上の原則などを契約前に説明する「賃貸住宅紛争防止条例」があります。いわゆる東京ルールですが、全国の契約に一律適用される制度ではありません。
相談が年間1万件を超える背景
原則が示されていても、入居時の状態と契約内容を証明できなければ争いは残ります。 これが原状回復トラブルの減りにくい理由です。
国民生活センターによると、賃貸住宅に関する原状回復トラブルの相談は、2022年度が1万2,885件、2023年度が1万3,273件、2024年度が1万3,277件でした。相談には、壁紙の全面張り替え、高額なクリーニング費、入居前からあった傷の修繕費などが含まれます。
相談事例から見える不満は、「請求が高い」という金額面だけではありません。
- 何を根拠に借主責任とされたのか分からない
- 入居前からあった傷だと証明できない
- 明細がなく、工事範囲や単価を確認できない
- 契約時の説明と退去時の請求内容が違う
ネット上でも原状回復費をめぐる体験談は見られますが、契約条項、入居年数、損耗の原因が物件ごとに異なります。他人の請求額だけを基準にせず、自分の契約書、写真、明細をそろえて判断する必要があります。
入居から退去まで、証拠を残す3段階
最も実効性のある対策は、退去時ではなく入居時から始まります。 口頭の記憶ではなく、日付の分かる記録を残してください。
入居時
- 壁、床、建具、水回り、設備を撮影する
- 傷や汚れをチェックシートへ記入する
- 管理会社や貸主へ写真と記録を送り、共有した証拠を残す
- クリーニング費などの特約を確認する
部屋全体が分かる写真と、傷を近くから撮った写真の両方があると、場所や大きさを説明しやすくなります。
入居中
- 水漏れ、結露、設備故障は早めに連絡する
- 貸主側とのやり取りをメールなどで残す
- 無断で修理や設備交換をしない
- カビや油汚れなど、日常の手入れで防げる汚れを放置しない
退去時
- 可能なら貸主側と一緒に室内を確認する
- 入居時と同じ場所・角度で撮影する
- その場で判断できない書類へ安易に署名しない
- 請求には、箇所、面積、単価、工賃、経過年数の説明を求める
立ち会い時の確認書は、室内の状態を確認する書類なのか、請求額への同意まで含むのかを読んでから署名します。
納得できない請求が届いたときの順番
請求を無視せず、根拠を一項目ずつ確認するのが現実的な対応です。 感情的な対立になる前に、書面で論点を絞ります。
- 契約書と特約を読み直す
- 入居時・退去時の写真を比較する
- 修繕箇所、施工範囲、単価、経過年数を記した明細を求める
- 国土交通省のガイドラインと照合する
- 貸主や管理会社へ、納得できない項目と理由を書面で伝える
- 解決しなければ消費生活センターや法律相談を利用する
全国の消費生活センターにつながる消費者ホットラインは「188」です。自治体によっては住宅相談窓口や弁護士相談も設けています。
国土交通省のガイドラインは一般的な基準であり、それ自体が個々の契約について強制的に請求額を決める法律ではありません。それでも、請求のどこに疑問があるのかを整理し、貸主側と話し合うための有力な物差しになります。
退去予定が決まったら、最初にすることは大掃除だけではありません。契約書、入居時の写真、修繕履歴を一つに集めることです。次の分岐点は、請求書に「原因・範囲・経過年数」が示されているか。その3点がなければ、支払う前に明細と説明を求める必要があります。
