救急搬送で名前が分からない――治療費をつなぐ「行旅病人」と公費の仕組み
意識を失った人が救急搬送され、氏名も住所も保険の加入先も分からない。それでも、必要な救命処置が費用確認まで止まるわけではありません。
では、治療費は誰が払うのか。結論からいえば、最終的な負担者が最初から一人に決まるのではなく、身元調査と制度確認を進めながら、本人の医療保険、生活保護の医療扶助、「行旅病人」の救護制度などへつないでいきます。行旅病人に該当する場合は、市町村が費用をいったん立て替え、本人などから回収できなければ都道府県等が弁償する仕組みがあります。
この記事で分かることは次の4点です。
- 身元不明でも、救急医療と費用確認は分けて進められる
- 保険証が手元にないことと、無保険であることは別問題
- 「行旅病人」は、身元不明者全員に自動適用される制度ではない
- 現場では治療後の身元確認と福祉制度への接続が重要になる
何が起きているのか――マイナ救急で見える情報は増えた
救急現場では、患者が話せなくても医療情報を確認できる手段が広がっています。
兵庫県西宮市消防局は、2025年10月からの実証事業を経て、2026年度から「マイナ救急」を本格的に開始しました。救急隊がマイナ保険証をカードリーダーで読み取り、通院歴や服薬情報を搬送先の選定などに活用する取り組みです。
原則として本人の同意を得ますが、意識不明で同意が難しく、生命や身体を守るために医療情報が必要な場合は、同意なしで閲覧することがあります。
ただし、マイナ救急は万能ではありません。
- 救急搬送時にマイナ保険証の所持は必須ではない
- カードを持っていなければ読み取れない
- 読み取れた情報だけで医療費の最終負担が決まるわけではない
- 氏名や住所が判明しても、支払い能力や生活状況は別に確認する必要がある
つまり、デジタル化によって治療に必要な情報へ早く到達できる場面は増えても、費用問題には医療保険、福祉、自治体実務を組み合わせた対応が必要です。
身元不明者の治療費は、実際にはどう処理されるのか
最初に病院が診療を行い、その後に「使える制度」と「費用を負担する主体」を探すのが基本的な流れです。
1.身元と医療保険が確認できた場合
搬送時に保険証やマイナ保険証がなくても、直ちに無保険扱いが確定するわけではありません。氏名、生年月日、住所、加入先などが後から判明し、受診時点で公的医療保険に加入していたと確認できれば、保険診療として整理できる可能性があります。
厚生労働省も、災害などで保険証を提示できない場合、氏名や生年月日、連絡先、加入する保険者が分かる情報を伝えることで保険診療を受けられると案内しています。
ここで重要なのは、次の三つを混同しないことです。
- 本人の名前が分からない
- 名前は分かるが保険資格を確認できない
- 保険資格はあるが窓口負担を支払えない
それぞれ必要な調査と利用できる制度が異なります。
2.生活に困窮し、医療費を払えない場合
身元が判明しても、本人に収入や資産がなく、医療費を負担できないことがあります。その場合は、福祉事務所が生活保護の要件を確認し、医療扶助の対象となるかを判断します。
急迫した状態で申請前に治療が始まった場合、医療機関から福祉事務所へ連絡し、申請手続きを進める運用があります。ただし、連絡した時点で医療扶助の適用が自動確定するわけではありません。厚生労働省の運営要領では、保護が必要と認められた場合、医療機関などから連絡があった日を申請日とみなせるとしています。
生活保護に至らない場合でも、対象となる医療機関では「無料低額診療事業」を利用できることがあります。これは、生計が困難な人の診療費を無料または低額にする社会福祉法上の事業です。すべての病院が実施しているわけではなく、減免基準も実施施設が関係機関と協議して定めます。
3.「行旅病人」に該当する場合
身元や住所が分からず、費用を負担できる人も救護する人もいないケースで重要になるのが、1899年制定の「行旅病人及行旅死亡人取扱法」です。
法律上の行旅病人は、単に旅行中の人という意味ではありません。条文では、おおむね次の条件を満たす人を指します。
- 移動中に病気やけがで歩けない状態にある
- 自力で療養を受ける手段がない
- 救護する人がいない
該当すれば、所在地の市町村が救護します。治療費などは市町村がいったん支払い、法律上はまず本人、本人から回収できないときは扶養義務者へ弁償を求める順序です。それでも弁償を得られない場合は、原則として救護地の都道府県が費用を弁償します。指定都市や中核市では、その市が負担主体となる扱いがあります。
ここがポイント: 「身元不明だから国が全額払う」のではありません。市町村が救護と一時立て替えを担い、身元や資力を調べたうえで、本人、関係者、公的主体のどこが負担するかを整理します。
自治体ごとに申請書類や費用の算定方法が定められています。京都府の規則では、診療費を健康保険の診療報酬基準に沿って算定すると規定しています。青森県の施行細則では、療養に必要な経費を生活保護の医療扶助基準額以内としています。
このため、病院が請求した金額が無条件で全額公費になるとは限りません。対象要件、連絡時期、必要書類、自治体の規則に基づく審査が入ります。
「身元不明」「身寄りなし」「支払い不能」は別の状態
制度の入口を間違えないためには、患者がどの状態にあるのかを切り分ける必要があります。
身元不明
氏名、住所、保険資格などを確認できない状態です。所持品、搬送時の情報、警察や消防との連携などから確認を進めます。身元が判明すれば、医療保険や生活保護を含めた別の処理へ移ることがあります。
身寄りなし
本人の氏名は分かっているものの、家族や頼れる人がいない状態です。厚生労働省は、身元保証人がいないことだけを理由に入院を拒否することは、医師法上の応招義務に抵触する可能性があると通知しています。
また、家族がいないことと、本人に治療方針を決める能力がないことも同じではありません。本人が意思表示できるなら、その意思を中心に医療を進めます。意思決定が難しい場合は、医療・ケアチームがガイドラインに沿って支援します。
支払い不能
本人の身元も保険資格も分かっている一方で、窓口負担を払えない状態です。この場合に検討されるのは、生活保護の医療扶助、無料低額診療事業、病院の分割払いなどです。「行旅病人」として扱われるとは限りません。
この三つが重なるケースもありますが、最初から一括りにすると、利用できる制度を見落としやすくなります。
病院と自治体の負担はなぜ重くなるのか
問題の核心は治療費だけでなく、患者の生活背景を確認し、制度へ接続するための実務にあります。
救急搬送後、医療機関の職員や医療ソーシャルワーカーは、治療と並行して複数の確認を進めます。
- 所持品や救急隊の記録から本人情報を探す
- 医療保険の加入状況を照会する
- 家族や支援者の有無を確認する
- 生活保護や行旅病人制度の担当部署へ連絡する
- 転院、退院先、介護や住まいの支援を調整する
本人が意識を回復しない、認知機能が低下している、住所を失っているといったケースでは、確認に時間がかかります。その間も入院費や検査費は発生します。
医療機関にとっては未収金のリスクがあり、自治体にとっては身元・資力調査や費用審査の負担があります。一方、費用回収を優先しすぎれば、救命や必要な治療へのアクセスを損ないかねません。制度が支えているのは、患者だけではなく、受け入れる救急医療機関でもあります。
よくある疑問を整理する
「誰が払うのか」という問いには、患者の状態に応じた答えが必要です。
家族が見つかったら、必ず全額請求されるのか
家族であるだけで、病院との契約上の支払義務が当然に生じるわけではありません。一方、行旅病人法には本人から弁償を得られない場合に扶養義務者へ請求する規定があります。実際の負担は、適用制度、保証契約の有無、扶養関係、本人の資力などを踏まえて個別に整理されます。
外国人にも行旅病人制度は使えるのか
同法には外国人の取り扱いに関する規定があり、外国人であることだけで制度から除外されるわけではありません。ただし、在留状況、旅行保険、公的医療保険への加入、領事機関との連携など、確認すべき経路が増えます。
マイナンバーカードがなければ救急搬送されないのか
されます。西宮市消防局も、救急搬送時にマイナ保険証は必須ではないと明記しています。カードは通院歴や服薬情報を確認する手段の一つであり、救急要請の条件ではありません。
無料低額診療なら薬代もすべて無料になるのか
一律ではありません。無料低額診療事業は実施医療機関での診療費を減免する制度で、院外薬局の費用まで同じ仕組みで減免されるとは限りません。利用前に医療ソーシャルワーカーや自治体窓口へ確認する必要があります。
次に見るべきは「発見後の連携速度」
今後の焦点は、本人確認の技術だけでなく、病院、消防、警察、福祉事務所がどれだけ早く役割分担できるかです。
マイナ救急が広がれば、カードを所持する患者については服薬歴や受診歴へ早くアクセスできる可能性があります。しかし、住所がない人、カードを持っていない人、意識が戻らない人まで、デジタル情報だけで支えられるわけではありません。
確認すべき実務上のポイントは明確です。
- 医療機関が早い段階で自治体の福祉担当へ連絡できるか
- 「身元不明」と「支払い不能」を分けて判断できるか
- 行旅病人制度の対象要件と必要書類が現場に共有されているか
- 身元判明後、保険や生活保護へ円滑に切り替えられるか
- 退院後の住まいや生活支援まで途切れずにつなげられるか
救命後に請求先が見つからず、病院だけが抱え込む状態を避ける。そのために残る課題は、制度を増やすことより、患者が発見された直後から医療と福祉を同時に動かすことです。
